現在輪島高校は昨年12月から本校のグラウンドに建てられた仮設校舎で教育活動を行っています。当初は3年生は本校舎、1,2年生が仮設校舎を利用していました。ところが今年の3月に、これまで利用していた本校舎の1部も基礎が破損しているということが判明し、4月から急遽3年生も仮設校舎で学ぶことになりました。
当然、スペースが少なくなるので、1つの教室を仕切りで半分に割って2つにしたり、会議室や調理室で授業をしたりと窮屈な思いをすることになってしまいました。トイレも少ないのでお昼休みは行列ができます。そこで、新しく3年生分のスペースを増築することになりました。3月末からその話がスタートし、設計やら何やらで、この8月からようやく工事が着工しました。
工事現場を囲む柵を立て、
まずは杭を立てていきます。教室の窓から作業の様子を見ることができます。いろんな重機がやってきて、こんな間近で建設の様子が見られるのもなかなかないなと思います。
スペースが広くなるのはありがたいのですが、増築部分もグラウンドに建てられるので、ますます外で運動するスペースが限られます。
ただでさえ狭くなったのが、さらに狭くなり、このスペースで野球部、サッカー部、陸上部が練習しなければなりません。市内の運動施設はどこも使用さえできないので、週末になると市外の運動場に練習に行っています。
工事の進捗を今後アップしていきます。
そしてもう一つ別の工事も始まりました。
この震災で痛感したのは水の大切さです。水と言っても飲料水は3 日分もあればそれ以降は支援物資として届きます。お風呂や洗濯は臭いさえ我慢できれば何とかなります。(それだって十分辛いですが)しかし、一番困るのはトイレです。各家庭において非常用トイレ袋の常備は必須だと思います。個人的な話ではありますが、令和6 年能登半島地震に先立つ2 年間余り地震が頻発していたので唯一準備していたのがそれでした。そしてそれがあることに感謝しました。自宅では1 か月以上断水しました。ぜひお守りだと思って常備してください。
学校に常備するのはあまり現実的ではないと思います。学校で発生した場合に備えるならせいぜい1 日分(生徒数×3 袋)かと。
幸いにも学校には前述したとおり貯水槽があったので、朝に配水車が給水してくれていました。配水管が破断したところは無理くり地上に配管を通してもらったので、学校ではかなり早い段階で生活水を使用できるようになりました。それでも水をなるべく使わないように、外の雪を溶かした水をペットボトルに入れておいて、便器にかけるなど工夫していました。貯水槽も1 回分なので夜になると不足したり、配水車も毎日は来れなくて日中に水がとまることも度々あったからです。そんな時は発災後すぐ外に設置されていたトイレ(全部で10 基くらい)に駆け込むことになりました。寒い冬の時期です。2 月からは小学生も高校の校舎を使って授業を受けていましたが、中のトイレが急に使えなくなったときは低学年の児童が先生に手を引かれて外のトイレに走っていく姿をよく見ました。
でもそうしたトイレは衛生的とはとても言えないのです。避難している人たちも含めていろんな人が使用するので中には粗相している人もいて最初の頃は掃除が大変でした。感染症のリスクもありました。しばらくすると支援に入っている人たちを中心に掃除の態勢ができてきてそれなりに衛生的になりましたが。
学校には簡易シャワー室が2つ設置されました。使用した水を循環して再利用できる装置があり、きれいに片づけた生徒玄関で稼働していました。とある企業が貸し出してくれたものですが、日本の技術はすごいなと感心した次第です。他の避難所では、自衛隊が設置したお風呂に入っていましたが、学校に避難していた人たちはその簡易シャワー室で済ませていました。
1月1日の地震は電気・水道にも大きな被害をもたらしました。1月2日に確認したときは当然どちらもダメ。それでも輪島市は輪島高校を避難所として使用したかったため迅速に動いてくれました。本来県立高校は県の施設なので避難所になっても体育館の使用までしか想定されていません。しかし、被害の規模があまりにも大きかったため体育館(使用できたのは第2体育館のトレーニング場・格技場)だけでなく、教室棟の方も開放せざるを得ませんでした。そのため電気と水道の復旧が急務となったのです。電気は1月5日に復旧しました。これで教室のエアコンが使用可能となり、教室を避難所として使用することができるようになりました。
問題は水道です。能登地方の水道は壊滅的な打撃を受け、当初は11万戸が断水しました。配管だけでなく浄水場も大きな被害を受けました。実際輪島高校周辺の配管も地面を掘ってみるとかなりやられていて簡単に修繕するというわけにはいきませんでした。
そこで地上配管でなんとか水道管を通し、水は給水車で配水することになりました。輪島高校には屋上に給水タンクがあり、そこへ毎日給水車がポンプで水を送りました。そうしたこともあり、輪島高校では制限はありましたが、早い段階で水を使用することができました。
輪島市内で3割近くの水道が復旧したのは2月20日ごろです。多くの施設や家庭で数か月水道が使えない不自由な生活が続いたことを考えれば恵まれていました。
仮の職員室のホワイトボードは3月までこんな感じでした。
ホワイトボード右半分の黒塗りの部分には転学予定の生徒の氏名、転学先、面接の日程などが書かれています。被災した生徒たちは、輪島市内外の避難所、県内・県外の親戚の家、みなし仮設(避難の人用に借り上げられた民間アパートなど)、ホテルなどさまざまな場所に避難していました。戻る家がなく、一家転住をせざるを得ない家庭もたくさんありました。そうなると生徒たちも転学しなければなりません。通常、高校では転学は余程の事情がないとできません。今回の地震はその「余程の事情」で、県内外から受入れの申し出がありました。避難している家庭からは毎日のように何件も転学希望の電話がかかってきました。その都度相手校と電話でやり取りし、書類のやり取り(郵便事情が悪く、金沢へ行く人に持って行ってもらうことも)をしました。仕方がないとはいえ、生徒たちは慣れ親しんだ場所を離れ、友達と別れなければいけません。本当に難しい決断だっと思います。面接の予定が決まったものの保護者と本人の間で食い違いがあり、再度設定しなおしたケースがありました。保護者は仕事の関係で当面輪島に残らざるを得ず、子供は金沢方面に避難していて別々に生活していたため十分に話し合いができていなかったのです。また、転学でも、一時的な転学という場合があり、水道が復旧したら戻るとか、仮設住宅ができたら戻るという一体いつになるのかわからない難しいケースもよくありました。そういった難しい状況でも多くの学校に快く受け入れていただきました。本当に感謝申し上げます。ときどき転学した生徒の様子を転学先の高校から聞くことがありました。「彼は部活動で頑張って県大会で入賞しましたよ」などと聞くと良かったと思うと同時に、なじめていない生徒もいるだろうなとついつい考えてしまいました。
職員室は写真のような状態でした。職員室がある2号館は一番被害が大きく、明らかに傾いていました。「また大きな地震があったら倒壊するのではないか」と職員が懸念を示したので、早い段階で使用をあきらめました。そこで大人数が入れる場所として1号館にある会議室が仮の職員室として選ばれました。正面玄関に近く、校長室や事務室に近かったことも大きな要因でした。会議室の机がそのまま先生方の机になりました。とにかく当面の間必要なものを職員室から持ち込み、LANケーブルを引っ張ってきました。電源を確保するのが難しく、容量にも限りがあったので別の部屋から延長コードをはわせるなどして何とか業務を行えるようにしました。(奥にこたつが置いてありますが、いつの間にか設置されていて、休憩場所になっていました)奥に仕切りがありますが、仕切りの向こう側は定時制の職員室となりました。
地震の間、学校に来るのが難しかった教員がいたのでスペース的には間に合いました。教員の中には住んでいたアパートが倒壊し金沢市にある実家に戻らざるを得なかった人や地元の人でも家が被災して家族で金沢市等に避難した人が相当数いたからです。そうした先生方は、教育委員会が県庁近くに位置する金沢西高校の1室に用意した「サテライト職員室」に「通勤」し、飯田高校や穴水高校など他の奥能登の高校の先生方と共同で3月中頃まで使用していました。(金沢西高校のみなさまありがとうございました)
グラウンドが全く使えない間は、本校から約20㎞離れたところにある日本航空高校石川のグラウンドを借りて練習していました。平日の半分以上、野球場とサッカーグラウンドを使わせていただきました。本当に感謝しています。(令和6年10月の体育祭も航空高校のグラウンドをお借りして開催することができました)
3月末に自衛隊がいなくなった後、部活動の場所や体を思いきり動かせる場所を確保しようと、生徒たちは自らグラウンドの整備を始めました。車両の出入りのために敷かれた砂利を拾ったり、トンボをかけたりして進めていましたが、豪雨により振出しに戻るという悔しい経験もしました。
その後、生徒たちの頑張っている様子を見た地域住民が、厚意で重機で整備を手伝ってくれたり、11月末には県の工事が入ったりで現在は整備が完了しています。(ちなみにグラウンドの整備には数千万円の費用がかかります)整備はされましたが、仮設校舎が建っているため狭くなったグラウンドで、野球部、サッカー部、陸上部がひしめきあって練習しています。
それでも、練習場所がなく部活動がままならなかったときに体育施設を使わせていただいた有難みがわかっているので休日や練習試合でいないときなどは地域の子どもたちのスポーツ活動のために開放しています。
本ブログの趣旨とは違いますが、「これからのこと」には鮮度が大事なのでご紹介します。
5月23日(土)能登空港のNOTOMORIで行われた「第4回のとマルチセクターダイアローグ」に参加してきました。「のとマルチセクター・ダイアローグ」とは、経済同友会が主催する能登半島の復興と地域創生に向けた対話集会です。行政、企業、NPOなど多様なセクターの参加者が「I DO NOTO and you?」をコンセプトに、みんなの力で能登の未来を切り拓くための具体的なプロジェクトを議論し推進しています。今回はその4回目で200名近くの人が参集しました。
冒頭の挨拶では、能登の復興に失敗したら、それは日本の将来にとっても悲劇であるとの言葉がありました。災害大国日本ではこれからも大災害が起こる。そんなとき東北や熊本、能登の復興が、被災してもこうやって立ち上がれるのだというモデルとして、希望として、未来に提示できるかもしれない。だから能登の復興はみんなで支えていくんだという強い思いが伝わってきました。
今回は宮城県女川町の須田町長をゲストスピーカーにお招きし、復興の歩みについてお話を聞くことができました。新しい町並みが形になるのに8年かかったこと、取り組みには賛否いろいろあったこと、人口は減り続けていることなど率直に語っていただきました。そして、「それでも前に進んでいるんだ」という言葉に励まされながら、発災以来走り続けているその姿に感銘を受けました。そして人と人のつながりがエネルギーを生み出すんだなと痛感しました。
この会ではイノベーション×レスキューシティ、拠点を活用した復興支援、アート、能登の食の流通、オーベルジュレストラン、スポーツ、企業研修・派遣、教育、新コンセプト活用、北陸経済人による企業プラットフォームなどさまざまなテーマに分かれて議論が行われました。会の最後にそれぞれ話し合ったことが全体共有されたのですが、民間の方々のスピード感は半端ないと感じました。この会が終わったらもうプロジェクトをスタートさせて、6ヶ月後の報告会ではその成果を発表するとしたところがたくさんありました。
能登は大きな被害に遭いましたが、それを逆手にとって新しく生まれ変わる千載一遇のチャンスを得ることができたと思います。みんなの思いがひとつでも形になるように私たちも知恵を絞っていきたいです。
本校の体育施設は以下の通りです。 第1体育館(ステージあり) 第2体育館(1階は卓球場、トレーニング場、剣道場、柔道場、2階はステージなしの体育館) グラウンド テニスコート4面(クレイ)
第1体育館は輪島高校の施設でも最も古い施設の一つなので、入り口付近を中心に大きなダメージを受けました。そして中に入ってびっくりしたのはたくさんの白い物体。一瞬「何?」と思いましたが、すぐに理解しました。古い体育館あるあるですが、天井近くの梁に引っ掛かっていたバドミントンの羽が強い揺れで落ちてしまっていたのでした。そして画像ではわかりにくいのですが、床が大きく湾曲しています。この場所は震災直後しばらくは自衛隊の宿営所になりました。数回中に入る機会がありましたが、数十人の自衛隊の方がいてものものしい感じでした。2月中にはほとんどの方が撤退したのですが、湾曲した床では部活動はできませんでした。
第2体育館の1階も大きく床が湾曲し、中央部が盛り上がっている状態でした。こちらは輪島市民の方の避難所となりました。この場所は輪島高校内で最も長く避難所となった施設で、最後の方が去ったのはその年の9月のことでした。当然1階では部活動はできませんでした。第2体育館2階の床面は無事でした。ただ天井の蛍光灯のほとんどがなぜか片方だけ外れてぶら下がっていました。第1体育館も含めて構造物が落ちているということはありませんでした。ここでは蛍光灯を修繕した後、部活動をすることができました。集会などもこの体育館で行いました。
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グラウンドは、自衛隊の駐車場になりました。これだけスペースがとれる場所は他になく、どの学校でもグラウンドはこのように利用されたようです。たくさんの自衛隊車両が走り回るのでグラウンドはグチャグチャな状態になりました。(言っておきますが自衛隊の方々の献身的な働きにはとても感謝しています)グラウンドの復元にはかなりの時間がかかりました。当然その間十分な部活動はできませんでした。輪島市内はおろか奥能登全域で体育施設が大きなダメージを受けたので、遠い場所まで移動せざるを得ませんでした。県は震災の影響で部活が遠く離れた場所に移動する場合については補助を出してくれました。
テニスコートは4面のうち半分は、輪島漆芸研修所の研修生が臨時で住むためのトレーラーハウスで埋まってしまいました。
このレベルの震災になると体育施設は大きな被害を受けるか復旧に必要な作業スペースになるので、生徒の活動場所がなくなることを痛感しました。
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輪島高校の100周年記念サイトによれば、震災発生時点の輪島高校校舎の建設年、改修年は以下のとおりです。
1967年 第1体育館竣工 1969年 新校舎管理棟落成 1979年 特別教室(視聴覚室、被服室、美術室)及び普通科教室増築工事竣工 1982年 第2体育館完成 1993年 第1体育館大規模改修工事完成 1999年 教室棟大規模改修・耐震補強工事(1期)竣工 2000年 教室棟大規模改修・耐震補強工事(2期)竣工
1995年の阪神淡路大震災を契機に、同年6月に制定された地震防災対策特別措置法等の下で、各地方公共団体等において学校施設の耐震化が図られてきました。本校も1999年と2000年に耐震補強工事を行っています。実際、教室棟の破損は各棟の接合部分を除いて大規模なものはなく、教室の窓ガラスも割れていませんでした。「箱」としての構造物の耐震性はそれなりにあったものと思われます。
しかし、問題は基礎杭が破損していることでした。
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基礎杭とは建物や橋などの荷重を地中深くの硬い地盤に伝えるために設ける杭状の基礎部材であり、地表付近の軟弱地盤を貫いて支持層に達することで、沈下や傾きを防ぐ役割を持つ構造要素です。これは土を掘って中を見ないと分かりません。(本校の場合、3棟のうち1棟は明らかに傾斜していたので分かりましたが)
この杭が破損していると、箱がただ地面の上に載っている状態になるので震度7クラスの地震がまた発生したときに構造物が倒壊する恐れがあります。ここが校舎を使用し続けることができるかどうかの判断の分かれ目になります。建物がちゃんと立っているように見えても基礎が破損している可能性があるので、早期に確認する必要があります。本校では1棟の確認が後手になってしまい、震災から2年以上たって破損していることが判明しました。
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その時教室にいなかったのでわかりませんが、これが地震後の教室の様子です。
案外と立っている机がありますが、輪島市中心部は震度6強だったからでしょうか。
震度7では机が吹き飛ぶこともあるということなので、とにかく頭に物が落ちてこない教室にしておくことが重要です。気を付けるべきところは、天吊りのプロジェクターや背の高い棚、蛍光灯の破片、窓ガラスの破片、大型モニターといったところでしょうか。どれも対策にはお金がかかってしまいそうですが、教室は生徒の滞在時間が一番長い場所なので対策の優先度は高くなります。
東京都消防庁公式チャンネルには3Dですが、大地震発生時に教室がどのような状態になるかかなりリアルな動画 が掲載されています。
石川県では「県立学校における防災対応力の強化」を目的に、令和7年度より地域ごとに防災拠点校を置き、少なくとも学期に1回防災教育を行い、連携校と共有する取り組みを始めました。
石川県学校防災アドバイザーの青木賢人金沢大学准教授によると、まず防災計画の充実にあたっては被害想定の「適切な見積もり」が重要と指摘しています。(以下青木准教授の講義を参考)
①活断層との位置関係を確認
活断層と学校の位置関係を知るには「地理院地図 」を使用します。
サイトを開いたら、左上の「地図」をクリックしてください。「土地の成り立ち・・」「活断層図」「活断層図(都市圏活断層図)」を順にクリックしていきます。
地図上に数多くの赤い枠が表示されます。学校周辺を拡大表示してください。
表示された赤実線、赤破線、赤点線が活断層の位置を示します.30~50m程度の幅を持たせて重なりを判断してください。赤網掛けは撓曲変形です。この上も構造物被害が生じます。
活断層の直上に学校ある場合は震度想定は7となります。
もっとも奥能登にはこの地図で対象になる活断層はないそうです。すべてが把握されているわけではないということです。
②学校が活断層の直上にない場合
防災科学技術研究所「地震ハザードステーション 」からJ-SHISマップを起動し、「想定地震地図」のタブをクリックしてください。 左側のコラムにある「震源断層」にチェックを入れ、学校周辺を拡大してください。 地図中から対象となる活断層を選んでください。 表示された震度分布で、学校の震度分布を確認してください。 右クリックで画像が保存されます。後で確認できるように保存しておいてください。
対策を立てる時の基準として、確認できた最大震度の一つ上の震度階を採用するそうです。 最大の震度が5弱なら震度5強で、最大震度が6強なら震度7で対策をたてるということです。
想定震度がわかったら、どのような被害が想定されるかを「気象庁震度階級関連解説表 」で確認しましょう。
地震ではありませんが、「ハザードマップポータルサイト 」という特定の地域の災害リスクを知ることができるサイトもあります。
この方法を知っておくと、自分の学校だけではなく、修学旅行などあまり慣れていない土地に行く場合でもどのような災害リスクがあるかを確認できます。
このように、情報はすでにインターネット上にあるので知らなかったという言い分は通らないと思った方がよいでしょう。
令和6年1月1日16時10分の地震(令和8年3月31日時点)
①発生日時 ○令和6年1月1日16:10
②震源及び規模(暫定値) ○場所:石川県能登地方(北緯37.5度、東経137.3度) ○規模:マグニチュード7.6(暫定値) ○震源の深さ:16km(暫定値)
③各地の震度(震度5強以上) 石川県 震度7 志賀町、輪島市 震度6強 七尾市、珠洲市、穴水町、能登町 震度6弱 中能登町 震度5強 金沢市、小松市、加賀市、羽咋市、かほく市、能美市、 宝達志水町
石川県:人的被害 死者706名、うち災害関連死478名、行方不明者2名、住家被害 全壊6,167棟、半壊18,723棟、公共建物443棟
出典:内閣府防災情報より抜粋
令和6年1月1日、未曽有の大地震が能登半島を襲いました。まさか正月にこのような大きな地震が発生するとは夢にも思っていませんでした。天災はまさに日も場所も選ばずにやってくるのだと身をもって知らされました。しかし、予兆はあったのです。令和3年あたりから輪島市の隣の珠洲市では地震が続発していました。そして令和5年5月には震度6強の地震が起こっていたのです。それでも、これでエネルギーが解放されたのではないかと安心さえしていました。(正常性バイアスというやつです。)やれることはもっとあったはずなのです。これだけ大きな地震だとやれることには限界はありますが、やれることをやっておかないと取り返しのつかないことになります。
はじめて学校の様子を見に中に入ったとき、もし生徒が学校にいるときにこの地震が発生していたらと考えゾッとしました。少なくとも大怪我は免れなかったと思います。不備はそこかしこにありました。
今は「これ」が倒れたらどうなるかということを常に考えるようになりました。すべてを固定することが理想ですが、学校現場ではそう簡単にはできないこともたくさんあります。それでも「これ」が倒れたら逃げ場があるかということを考えておくことはできます。逃げ場がなさそうなものを優先的に固定しましょう。逃げ場があるなら生徒にそのことを周知しておかなければなりません。物理的な備えは少しずつ、行動の備えはすぐにでもやっておきましょう。